2007年10月30日
へんなはなし
遍路
遍…あまねく道を行く
つまりアッチャコッチャ彷徨うちゅーコッチャね。
まさに今回のGPS軌跡の通り・・(笑)
たんにデーターが飛び跳ねているだけであるが・・・。
こういう場合一般には巡礼、って方が使われるんだけど
四国八十八箇所の場合は主に遍路。
聖地を回る巡礼に対し、
”寺”ではなく”道”が主役って事なんやろうね。
極論すれば”寺”は道標、一夜の屋根・壁に過ぎないのかも。
遍路の遍は辺地・辺境の辺。
弘法大師以前から四国に渡って海に沿って歩き
南の果て室戸岬まで、って、修行が行なわれていたらしい。
風雨激しい時の室戸の海岸線は確かに修行だわ。
考えてみりゃ源氏物語で明石に流されただけでも大事なのに
そっから淡路を越え四国に渡り南の果てまで、、
そりゃ都の人間の想像を超えた辺地、
コロンブスの出港より怖かったかもしれん。
巡礼が聖地を巡り先人の偉業を感じるものだとしたら
遍路は先人の修行の追体験を迫るもの。
今の時代にこんなオープンな形の苦行・難行ってのは
他にないだろうな。
- by < 直 >
- at 23:01
comments
じょにぃ さん こんにちは
>となれば、お寺に行く必要すら無くなってきますが…
そうですね、一度遍路に出れば、すべての日常はその途上に過ぎないといえますからねーー。
って、、ブショウモノの言い訳ですが・。
遍路の解釈…ある意味正解と思います
実は四国遍路には善通寺(75番)を中心に四国という島全体を曼陀羅に見立てているという説があります。曼陀羅は天界の地図みたいなものと聞きかじったことがあります(間違いならすみません)曼陀羅の上を動く以上、道のりもお寺も修行と思いますよ。
ただ、お遍路はどこからはじめてもどこで終わっても途中で辞めてまた来ても順番も手段も作法として問われることはありません。札所の番手は昔の道のりで効率よく回れる順番なだけです。(例、愛媛、横峯寺など今の道路で車でいけば3番手ぐらい後にしても良い)
個人意見ですがチェックポイント(寺)を訪れる意志(発心)こそが信仰であり、裏付けたる修行というのは自分に対しての問いかけであるとおもいます。せわしく、がんじがらめな日常から一瞬でも離れて自分自身と向き合うことこそがお遍路ではないかと最近思います。
…となれば、お寺に行く必要すら無くなってきますが…すがらなくては生きていけないのは人間の弱いところでもあるわけで…